茶道好きの京都たび(2)大徳寺ほか
最終更新: 2020年4月20日
茶道にゆかりのスポットといえば、大徳寺。
今回は京都駅の少し北へ、茶人と縁の深い大徳寺へ。
さらに、天才アーティスト本阿弥光悦が集落をつくっていた光悦寺を巡りました。
大徳寺・高桐院

大徳寺は鎌倉時代末期に建立。
応仁の乱で一度焼失しますが、“一休さん”でお馴染みの一休宗純和尚が復興しました。
その一休和尚について禅修業をしていたのが、わび茶の創始者とされる村田珠光。
そこから茶の湯との関わりが始まりました。
京都駅からアクセスしやすく、烏丸線で北大路に出て市営バスで5分。
大徳寺の境内は広く、その中に20以上の小さな寺院(塔頭)があります。 塔頭とは大寺院の敷地内にある個別の小さな寺院のこと。高僧の死後にその徳を慕って建てられることがあるようです。
その中でも、一般向けに常時公開されているのは以下4つの寺院です。
1.龍源院: 貴重な収集品が多く、秀吉と家康が対局したとされる碁盤や、阿吽(あうん)の石庭が有名。

2.瑞峰院: 昭和になってから重森三玲によって造られた3つの庭園が見どころ。

3.大仙院: 室町時代の枯山水を代表する書院庭園で有名。
4.高桐院: ※2018年の台風の影響で拝観休止中のため注意。再開は未定。 千利休七哲である細川三斎(忠興)が建立。 高桐院は、大徳寺の中でも特に大好きな場所です。
一面の苔や楓の若々しい緑色に囲まれた、石畳みの参道。
秋には紅く色づきます。

木漏れ日を受けながら参道を一歩ずつ進むと、外の世界から一気に神聖な空間へ。
まさに心が洗われる場所です。
細川忠興は名武将細川忠孝の子であり、信長と秀吉に仕えた名将。 明智光秀の娘、キリシタンとなった細川ガラシャの夫でもあります。 加えて茶人としても高名で、数寄大名の中で特に利休の教えに忠実だったとされています。
利休が秀吉に切腹を命じられた際には、同じく七哲の一人である古田織部と危険を冒して利休に会いに行ったと言われ、利休への敬愛が伺えます。
一方で、このような優美な寺院を建立するのはさぞ穏やかな人物かと思いきや、なかなか短気で有名だったようです…
今でこそ茶道は女性らしいイメージがあるものの、当時は人を斬るのも躊躇わない戦国武将が熱中していたと思うと、少し見方が変わります。
客殿の建物は明治時代に一度取り壊され、その後細川護立が寄進したもの。

縁側に座り、ゆっくりと楓の庭園を眺めることができます。
やや暗い室内から、眩しいような緑のお庭のコントラスト。
ここで腰を落ち着けてぼんやりするのも、瞑想に浸るのも至福の時。
また、2つの茶室も鑑賞できます。
蓬莱:客殿の建立時に造られた、ゆったりとした書院の空間。
松向軒:秀吉が開催した北野大茶会の際に用いられた建物を移築。
光悦寺
大徳寺から少し歩き、千本北大路のバス停から四条大宮行きで5分。鷹峯源光庵前で降ります。

本阿弥光悦は、桃山時代から江戸初期にかけての芸術家です。
本業である刀剣の鑑定・研磨に加えて、陶芸や書でも素晴らしい作品を多く残している天才。
「日本のレオナルド・ダ・ヴィンチ」とも言われるとか。
楽家との付き合いがあり、直系ではないものの、光悦が手がけた楽焼は楽家のものと同じように鑑賞できます。
茶の湯では、古田織部を師としていました。 しかし、織部は大坂夏の陣の後に家康から自害させられてしまいます。
光悦も、家康からこの鷹ヶ峰の地を拝領し、追い出されるように移り住みました。
その後、光悦はさまざまな芸術家や文化人をこの地に集め、55軒もの屋敷が並ぶ光悦村と呼ばれる独自の集落を築きました。
光悦の死後、その屋敷が光悦寺となったそうです。
敷地内には7つの茶室があります。
その一つである大虚庵を囲むように造られた竹の生垣は、独特の“光悦垣”として有名です。

ゆるやかなカーブを描く割竹の内に、竹が斜めの格子状に編み込まれています。
光悦が生み出したこの編み方は、その後広く使われるようになったそうです。

さらに庭の奥へ進むと、鷹ヶ峰がそびえ立ち、京都の町を見下ろす絶景。
何百年も変わらずにある自然を前にして、この地で創作に勤しんだ光悦と弟子たちの光景が浮かぶような不思議な感覚。
日常の喧騒や雑務から分断されて、山の上から町を眺めます。
日常を外から俯瞰するような、静かな時間を楽しむことができました。